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本間忠良 衝撃の新刊 知的財産権と独占禁止法−−反独占の思想と戦略
経済法あてはめ演習60選(日本語)Antimonopoly Act Exercise 60 Cases
情報革命についてのエッセイとゴシップ(日本語) Essays and News on Information Revolution
著作権と競争政策――インセンティブ仮説の検証(試論)
2008年11月15日 明大法科大学院JASRAC寄付講座
1.はじめに
2.著作権の「法と経済学」
2.1.著作権の社会的費用
2.2.ブレイン・ストーミングによる検証
3.著作権の自浄機能
3.1.アイデアと表現
3.2.フェア・ユース
3.3.ミスユース
3.4.保護期間
4.独占禁止法
4.1.レント・シーキング
4.2.アメリカ――会社分割より情報開示
4.3.EU――文化政策としての競争政策
5.おわりに
注
1.はじめに
私はこの寄附講座のこれが4回目で、いままでは、映像コンテンツ、デジタル・コンテンツ、ネットワークの各技術分野と競争政策のかかわりという各論ばかり話してきました。順序が逆になりましたが、今回は「著作権と競争政策」という総論を話せという趣旨らしいので、思い切って、「法と経済学」の方法を借りて説明することにしました。
著作権のことを考えるとき、いつも最初に突き当たる疑問があります。いわば著作権の倫理問題とでもいうのでしょうか。いままで私がやってきた各論では、この倫理問題をすべてスキップしてきたのですが、きょうの総論では、この問題を避けて通ることができません。
まず、著作権の本質が情報の独占であることについては異論がないでしょう。著作権法は、著作物という情報の複製物の市場を、著作権者に独占させるために考案された法的ツールです。
つぎに、なぜそんな独占権を私人に与えるのか?という疑問に対する答えとして、現在最も有力なのがいわゆるインセンティブ仮説です[1]。これは、著作権とは、それによって生み出される独占的利潤を著作者に与えて、さらなる創作のインセンティヴに転化しようという文化政策の一環なのだという仮説です。これは著作権法1条の目的規定を「法と経済学」風に表現したものです。これ以下の説明は、すべてこの仮説の検証の試みだととってください。
インセンティブ仮説について、まず最初に突き当たる疑問は、では、著作権をどのぐらい保護すれば、最も有効な創作インセンティヴになるのか?という最適問題です。よくコンテンツ業界の人などが、「著作権保護が弱いと、創作の意欲がわかない。だから、創作を促進するためには、著作権保護をもっと強くしなければならない」というのですが、これは答えになっていません。前提が真だとしても、逆はかならずしも真ではないのです。
この主張は、著作権の保護と創作のインセンティヴがほぼ比例するという前提でなされているので、インセンティヴを最大化するには、著作権の保護を無限大にすればいいという結論を導いてしまいます。これが誤りであることは本能的にも分かるのですが、念のため、すこしていねいに考えてみましょう。
これからお話しすることは、私のかねてからの持論なのですが、たまたま2003年に出版されたシカゴ大学のランデス教授と第7巡回裁のポズナー判事の共著による「知的財産法の経済的構造[2]」という本が、私の持論とかなりの点で並行していますので、いちいち何ページという面倒を避けて、最初に包括的に引用表示しておきます。
2.著作権の「法と経済学」
2.1.著作権の社会的費用
まず著作物という商品の供給のために必要な費用のことを考えましょう。費用というのは原価のことです。ここでいう著作物としては、とりあえず書籍のことを考えて、あとでほかの著作物に応用しましょう。
著作物という商品が、著者によって創作されてから読者の手に渡るまでの費用には2種類あります。まず創作費用です。これは著者に一時金で払う原稿料とか、出版社の取材経費や製版費など、複製を何部作っても変わらない費用で、固定費用です。コンピューター・プログラムの開発費もここにはいります。つぎが複製費用です。これは、著者に発行部数に応じて払う原稿料とか、出版社の印刷費や流通費など、複製部数が増えるにつれて増える費用で、可変費用です。
特定のジャンルの書籍は不完全代替財ですから、その需要の価格弾力性[3]は負の有意な値で、需要曲線は右下がりになります。つまり、価格が安ければ需要数量が増えるのです。
説明が要りそうですね。代替性がほとんどない商品の需要の価格弾力性はゼロにちかくなって、需要曲線はほとんど垂直になります。砂漠のなかの1杯の水がいい例ですね。この商品は、価格が高いから買わない、価格が安いから買うというものではないのです。
反対に、完全にちかい代替性をもつ商品の価格弾力性はマイナス無限大にちかくなって、需要曲線はほとんど水平になります。これは安ければ買うけれども、すこしでも高くなったら買うのをやめるという商品です。
この「完全にちかい代替性をもつ商品」の例として、きょうの会場にいちばんぴったりなのが、喫茶店でのCD演奏やデパートのBGM演奏でしょうね。1999年、附則14条を廃止して、それまで許されていたこのような演奏を禁止権の対象にしました。こんなものは、あればいくらか心の安らぎになるけれども、なくてもべつに困らない商品なので、価格が安ければ買うけれども、すこしでも高くなったら買わないという顕著な特性をもっています。
附則14条の廃止によって、喫茶店はCDをかけなくなったし、デパートではBGMを流さなくなくなりました。JASRACの収入がわずかに増えたでしょうが、これによって失われた社会的利益は膨大なものだったでしょうね。自分が子供のとき聞いたメロディがどこからかかすかに聞こえて、ふっと思い出にふける――というような小さな効用が、1億3千万人から失われたのですから・・。日本のコンテンツ業界の経済学音痴がよく分かる例です。もっともこれはベルヌ条約の義務だから仕方がなかったのだとおっしゃるでしょうが、業界は、「仕方がなかった」にしてはうれしそうにやっていましたよ。それに120年以上前のベルヌ条約そのものが経済学音痴なので、そろそろ交換時期でしょうね。
私事で恐縮ですが、私のグレン・グールドとの出会いは、通りすがりの喫茶店でふと耳にしたバッハのフランス組曲でした。入口でウェイトレスにたずねると、彼女もファンらしく、ジャケットを見もせず、うれしそうに教えてくれました。いま私はグールドのCDを何十枚も持っています。もっとも、バッハは、著作権が切れてパブリック・ドメインになっていますから、いい例ではありませんね。話をもとに戻して、書籍やCDの代替性は上の両極端の中間と思われます。
第1図をみてください。価格差別がおこなわれていない場合、この商品は、需要曲線DDと限界費用曲線MCの交点E(均衡点)に対応する数量Qeが供給され、そのときの価格はPeです。価格差別がおこなわれていないので、社会的に1物1価が成立するのです。この均衡点では、価格と限界費用がイコールなので、利潤が出ません。限界費用=可変費用と近似すると、固定費用の分が赤字になります。価格と数量が、競争を通して、社会的(他律的)に決まってしまうので、供給者の自由にはならないのです。
第1図
この均衡点では、これ以上の価格を払ってもいいと思っていた(つまりこの商品にPe以上の効用を認めていた)需要者は、望外の得をしたことになります。これが消費者余剰で、図形AEPeの面積で表されます。余剰は投資されて経済を拡大します。
ところが、著作権という独占権をもっている出版社は、利潤ゼロ(固定費用赤字)ではとうぜん不満です。独占者だから、自分で供給数量とそれに対応する価格を決めることができます。
そこで、出版社は、供給数量Qmと価格Pmを、限界費用が限界収入MRに等しくなる点Cに対応する需要曲線上の点Mに設定します。つまり、これ以上の数量を生産すると、増刷1冊分から得られる収入が、その1冊分にかかる費用より少なくなってしまうので、この点Mで増刷をやめるのです。
この点での出版社の1冊あたりの利潤はMCで、これが出版者の最大利潤です。利潤のトータルは図形PmPeCMの面積で表わされます。この分だけ消費者余剰が出版社の利潤に移転しているのです。つまり、消費者は損をするのですが、その分出版者が得をするので、社会全体では損得がありません。
ところが、この点での消費者余剰は図形AMPmの面積になって、出版社への移転と加えても、均衡状態のときの消費者余剰には足りませんね。この不足分は図形MCEの面積で表わされ、deadweight
loss(死重損失)といって、どこへもつけをまわせない社会的な純損失になります。これが著作権の社会的費用です。
第1図は価格差別がないという前提でしたが、この前提をはずしてみましょう。出版社は独占者ですから、高値設定ばかりでなく、かわりに、価格差別もできます。高くても買おうと思っていた消費者には高く売るのです。1物多価になるわけです。このために、ハードカバーとペーパーバックという2種の商品を作ります。同時に発行したら、みんなペーパーバックのほうを買ってしまうので、時間の障壁を置きます。
これは映画でもおなじことが起こっています。ロードショー館、一般館という順序で上映して、しばらくしてDVDを出し、最後にテレビに流します。すべて、価格差別による独占者の利潤最大化行動として説明できます。価格差別によって、図形AMPmの消費者余剰が、さらに出版社の利潤に移転していきます。独占と価格差別によって生じるこのような超過利潤のことを「レント」と呼ぶことがあります。これについてはあとで話します。
ただ、まちがえないでくださいね。ランデス・ポズナーも私も、これらの価格設定や価格差別行動を悪いとか、法律違反だとかいっているのではありません。このような行動から発生する死重損失が、すべて、著作権という独占権の社会的費用だということをご認識いただきたいのです。
2.2.ブレイン・ストーミングによる検証
ここで、インセンティブ仮説を検証するため、ランデス・ポズナーにならって、ブレイン・ストーミングをやってみましょう。つまり、著作権がなければ創作のインセンティブがなくなってしまうのか、いいかえれば、著作権によらない創作のインセンティブもあるのではないかという質問を設定して、順不同で答えてみようというわけです。
(1) 創作者の先行者利益が大きい:出版社は、無断複製者が現われてくるまでの一定期間、市場で独走できます。とくに、無断複製者は、一般に、その著作物が成功するかどうか見定めてから複製しようとしているので、この先行期間は貴重です。この意味では、さっき触れたハードカバーやロードショーの時間差作戦は、著作者にマイナスに働きます。反対に、新聞記事やポップ音楽など、その効用がephemeralな(短時間で消える)ものでは、この先行者利益が決定的なので、長期間の著作権保護は不要ではないでしょうか。
一般に、自然独占者は、知的財産権にあまり熱心ではないといわれます。Intelが特許の取得に熱心でないことは有名ですね。ソニーのウォークマンは、構造的にはただのテープレコーダーにすぎず、特許などはほとんどありませんが、1979年発売以来、追随者が現われるとモデル・チェンジで引き離すという軽快なフットワークで、現在まで首位を保っています。
(2) 品質の劣る複製物はオリジナルの完全代替財ではない:無断複製は一般にオリジナルより品質が劣ります。これは私の体験ですが、私はかつてむかしのNapsterの愛用者でした。これは無料だったのですが、悪いやつが楽曲のうしろのほうを卑猥な替え歌にしてアップロードしたものを何回か聞いてしまって、いやな思いをしたことがあります。これがいやだったので、有料のアップルITMSに変えてしまいました。これこそ品質の勝利というのでしょうね。
コンピューター・プログラムのクラック版でもおなじ経験をしたことがあります。YouTubeはあいかわらず画質音質とも悪いですね。JASRACの抗議が利いているようです。
(3) パブリック・ドメインは創作を促進する:著作権保護によって可能になる収入増加は、たしかに、あたらしい著作物の創作と生産に資源を呼びこむインセンティブになります。しかし、そのインセンティブは社会的な損失を発生します。これが著作権の社会的費用(コスト)です。
そのような社会的費用のひとつがパブリック・ドメインの減少です。ほとんどの創作は先行の創作に依存しています。これは二次的著作物――翻案――の問題です。
歴史的にみて、オリジナリティ(創作性)が、いまほど、すべての価値の上に置かれたことはありませんでした。文芸や音楽の歴史は翻案の歴史でした。ランデス・ポズナーは、文芸における翻案の膨大な例を挙げています。たとえばシェークスピアは、プルターク英雄伝のせりふをそのまま大量に使っています。ただそのことがシェークスピアの価値をいささかでも低めることにはならないともいっています。
音楽では、ランデス・ポズナーより私のほうが詳しいと思うのですが、バッハは、彼の音楽のなかに当時のプロテスタントの賛美歌(コラール)を大量に使っています。彼の最大傑作といわれるマタイ受難曲がいい例です。だからといって、バッハの偉さがすこしでも割り引かれるものではありません。ただ、いまだったらマタイ受難曲はできなかったでしょうね。
(4) 契約は著作権を超える保護を与える:コンピューター・プログラムのライセンス契約では、複製やその頒布が制限されており、また、トレード・シークレット契約を兼ねていることが多く、大企業間ではよく守られています。しかし、著作権の支分権にない使用制限や、複製権に触れないリバース・エンジニアリング禁止など、著作権ではできない取引制限が大手を振っておこなわれています。
あるソフトウエアの業界団体は、法人内の契約違反者を一人でもみつけると、彼を訴訟で脅してほかの違反者を密告させ、最終的にはこの法人そのものを脅して、法人全体の定期監査を受けさせるという、社会常識からかなり離れた苛酷な契約エンフォースメントをやっているそうです。
(5) DRMは著作権をはるかに超える独占を創出する:かつて、ある著作権法の先生が、DRMや暗号化が発達すれば著作権は要らなくなるといっていましたが、その見方は楽観的すぎましたね。DRMを迂回し、暗号を解読するソフトがすぐに出てきます。そこで、そのような行為を違法化することになって、それが1996年のWIPO著作権・隣接権の両条約、アメリカのDMCA、日本の著作権法120条の2 1-2号と不正競争防止法2条1項10-11号になりました。
DRMは、デジタル形式のあらゆる情報に適用され、@著作物ではない事実情報や A著作権の保護期間が満了した作品などパブリック・ドメインに属する情報までコンテンツ流通業者が囲いこめるばかりでなく、B著作権法30条以下に規定する家庭内使用や教育用使用などの公正利用権まで技術的に取り上げることができ、C使用態様・回数制限など[4]、著作権の支分権の行使をはるかに越えた取引制限まで可能にしています。憲法(情報の自由)や独占禁止法からの批判が出ています。
現在、音楽のインターネット配信で、なだれ的なDRM廃止の動きが起こっています[5]。これは、性能抑圧装置であるDRMがコンテンツ業界からも嫌われつつある――つまり品質競争が始まっているという意味で、著作権がらみでは憂鬱な[6]話ばかりの中で、わずかな明るいニュースです。
(6) 複製には建設的側面がある:複製を悪の権化のように排斥する神がかりな精神状況から抜け出して、複製の販売促進的側面にも目を向けるべきです。
アメリカのAmazonが書籍のページをpdfで掲載しています。Googleも始めています。インターネットでの音楽交換はCD音源の価値を高めます。ちょっと逆説的で、レコード会社が聞いたら怒るでしょうが、音楽交換フリーのCDを作って、3割ぐらい高く売ればいいのです――ネットではやっていますよ。図書館での複製も、むやみに禁止するのではなく、購入価格に一定の料金を上乗せしてフリーにしたらいいのです。定期刊行物以外の「全部」は不可という著作権法31条1号とそれを文字通りにとった「土木工学事典一審(事典の1項目の全部も不可)」判決[7]など、「法と経済学」的見地からは愚劣というほかありません。コンピューター・プログラムでも、マイクロソフトの独占を可能にしたネットワーク効果には、何百万という無断複製も貢献しているのです。
お金が払えないから、または払う気がないから無断複製するのだとすると、この無断複製によって、創作者は損をしていないことになります。私のこのような発想を不道徳だとお思いですか? 「法と経済学」は、道徳をも経済学で説明しようとしているのです。
(7) 著作者には印税を超えた利益がある:著作者には、印税のほかに、名声や権威というような非金銭的利益と、講演料、コンサルティング料金、パブリシティやキャラクター権料金のような金銭的利益があります。創作力の落ちた作家は、講演や文学賞の審査員をして食べています。
著作者と出版社のコンフリクトについてはここでは深入りしませんが、学術的な著作の場合はこれがかなり顕著です。一般的に、学者は、彼の業績を多くの人に見てもらいたいため、著作権保護にはあまり熱心ではありません。
数日前の新聞によると、手塚プロが手塚治虫の全作品をネット上で無料公開して、キャラクター権で収入を確保する方針に切り替えたそうです。ミッキーマウスの著作権が切れそうなために、著作権の保護期間を強引に延長させたディズニー・プロとくらべて、手塚プロのほうがずっとフレキシブルで、賢いと思います。
(8) 複製技術の進歩は出版社を利している:情報の複製と通信技術の進歩は、無断複製者より、正規の出版社の利益になっています。音楽や動画のインターネット配信と、19世紀のレコードや映画とをくらべてください。ものすごく大きな費用節減になっています。この利益が著作者や消費者に適正に還元されているでしょうか? 出版社がインターネット配信に消極的なのは、既存の流通組織をなにがなんでも守ろうという時代錯誤のせいだとしか思えません。
(9) スーパースターがすべてを取る:情報流通の発達が、いわゆる「スーパースター現象」を作り出しています。ふたりのピアニストAとBを考えてください。技術的にはAがBよりわずかに(2%としましょう)勝るとします。ふたりのレコードはきわめてちかい代替物なので、レコードの価格が同じなら、すべての消費者がAのほうを買います。それは、現代の情報流通の速さのため、AB間の評価情報のギャップがなくなっているからです。著作物の流通は「勝者がすべてを取る」システムで、1位だけが巨大な報酬を受け取り、2位以下はゼロに近い状態まで落とされるという状況を作り出しています。
日本の著作物の再販価格拘束は、こんな点でも、文化の健全な発展を硬直化させています。再販制がなくなって、Bが2%安い価格で売られるなら、Bにも生きるチャンスがあるのです。
(10) 開発費回収仮説:コンピューター・プログラムについてよく主張される仮説があります。プログラムを開発するには巨額の経費がかかるから、複製物の市場独占によってこれを回収できる保証がないと、だれも開発投資をしなくなるという仮説です。これは製薬会社などが医薬品特許についていつも主張する仮説と同じです。「インセンティヴ仮説」の一種ですね。いずれも、一見説得力があるのですが、よく考えるとおかしいですね。
研究開発に限らず、投資はいつでもリスク・ティキングです。鉄道や通信や電力など、はるかに大きな投資でも、その回収は保証などされていません。プログラムと医薬品だけ保証しろというのは甘えではないでしょうか。
プログラムにしても製薬にしても、独占で保証されなくても、製品市場で一定期間先行できるなどのプレミアムがあれば、開発投資がおこなわれるのです。投資も競争によって最適規模が決まります。投資は大きいほどいいということはありません。中小投資が多数なされるほうがいい場合もあるでしょう。
OSでいうと、むかしのIBMでも、いまのMicrosoftでも、1世代のOS独占で稼いだ資金を次世代OSの開発に投入するものだから、OSがどんどん大きくなって、かえって使いにくくなる(恐竜化)という弊害がでています(あとでいう「レント・シーキング」です)。製薬でも、特許独占による回収が保証されているために、かえって、開発手法のスリム化が進みません。いまだに、何万株もの抗生物質をテストしてそのうち1株実用化できればいいという非能率な手法をやっています。
――――
以上のブレイン・ストーミングを通して、私は、著作権が、時には、その目的である文化の発展にむしろマイナスにはたらく可能性があることを示してきました。情報化時代にはいって、いろいろなあたらしい著作物が出現しつつある現実があるのに、すべての著作物に一様に硬直的に適用される著作権法が適応不全になっていることがあきらかです。
ランデス・ポズナーも私も、著作権法を廃止しろと主張しているのではありません。ただ、いまの著作権のこれほど強くて長い硬直的な保護が、ほんとうに創作のインセンティブとして最適なのかという疑問を提示しているのです。
著作権法のこのような硬直性を緩和するためは、まず、著作権法に内在する自浄機能をフルに活用しなければなりません。著作権法に内在する自浄機能として、私は、これから、「アイデア不保護」、「フェア・ユース」、「ミスユース」、「保護期間」について話します。
3.著作権の自浄機能
3.1.アイデアと表現
まずアイデアと表現の2分法/アイデアと表現の融合については、これまでの著作権法の講義の中で詳しく論じられていると思うので、ここで繰り返すことはいたしません。ただ、最近のアメリカの判例で面白いものがありますので、紹介だけさせていただきます。これは本来はレント・シーキング問題なので、独占禁止法が出るべきだったと思います。
Lexmark Int'l,
Inc. v. Static Control Components, Inc., 387 F.3d 522 (6th Cir. 2004) :
地裁原告Lexmark社のレーザー・プリンターでは、トナー・カートリッジに装着されたマイクロチップ中のトナー・ローディング・プログラムがトナーの残量値を記録、これをプリンター本体中のプリンター・エンジン・プログラムが読み取って規定値と比較し、双方が合致しないとプリンターが停止します(したがって使用済みのカートリッジに他人がトナーを再充填してもプリンターが動きません)。
地裁被告Static Control社は、トナー・ローディング・プログラムをデッドコピーしたマイクロチップを製造して、トナー詰替え業者に販売しました。Lexmark社はStatic
Control社を著作権侵害で提訴、地裁がLexmark社の仮差止請求を容認しました。
巡回裁は、Lexmark社のトナー・ローディング・プログラムを「ロックアウト・コード」と認定、互換妨害というアイデアと一体(idea-expression merger)であり、且つ機能によって強制される表現(scènes à faire)だから、Lexmark社は本案での成功の蓋然性を確立していないとして、地裁仮差止命令を破棄しました。
3.2.フェア・ユース
これは日本でもいまホットなイシューですが、いろいろいうより、ひとつ判例をみていただいたほうが早いと思います。
Assessment Technologies
v. WIREdata, 350 F.3d 640 (7th Cir. 2003):
ウィスコンシン州のいくつかの市町村は、財産税評価目的で住民の家屋を全数調査し、Assessment Technologies(AT)社作成のデータベース・プログラム「マーケット・ドライブ」(Microsoft Accessベース)に入力していました。WIREdata社は、情報公開条例にもとづいて、これの原データを請求しました。不動産販売が目的です。市町村はAT社とのライセンス契約で原データの公開も禁じられているとして拒否しました。同時に、AT社がWIREdata社に対して著作権侵害予防の差止請求をおこないました。
巡回裁(Posner判事)は、「著作物でない原データの開示を、著作権ライセンス契約で制限することは著作権のミスユースである。WIREdata社が取引制限を立証したら、反トラスト法違反も成立する可能性がある。開示のために必要なプログラムの使用はフェアユースとして許される」などとしてWIREdata社を勝たせました。
いまアメリカの独占禁止法学界で多数を占めているいわゆるシカゴ学派は、ミスユースは反トラスト法と重複するから廃止すべきだと主張しているのですが、そのシカゴ学派の長老であるポズナー判事がこの判決を書きました。この事件はデータベースの事件でしたが、「フェアユースの制限がミスユースに当たる(語呂合わせみたいで申し訳ないのですが)」という点がコンテンツにもプログラムにも応用可能です。
いま日本でも公正利用の一般条項を設けようという提案が出ていますが、こんなのは周回遅れもいいところで、とっくに一般条項をもっているアメリカでは、さらに1歩進めて、ミスユースの大胆な適用が始まっています。
情報化時代にはいって、いろいろな著作物がつぎつぎと出現しているのに、著作権という――世界の先進国に類のない送信可能化権までふくむ――一枚岩の保護を与え、フェア・ユースを著作権法30条以下の矮小な限定列挙にとどめている日本の著作権法の欠陥が露呈しています。ネット音楽交換に対するいわゆるカラオケ法理の安易な類推適用[8]など、日本の裁判所も硬直が目立ちます。
3.3.ミスユース
アメリカにはミスユース判例の巨大な蓄積[9]がありますが、日本でも、知的財産権の過剰行使を権利濫用の法理で抑えようという動きがあります。昨年、経済産業省があたらしい「ソフトウェアに係る知的財産権に関する準則」を発表しました[10]。準則というのは法律でも政令でもなく、経済産業省が設置法で与えられた権限にもとづいて、たとえば民法の解釈を示したもので、裁判所の判断を拘束するものではありませんが、経済産業省の法解釈を示すものとして一定の権威があります。準則そのものは簡単で、つぎのように言っています。
ソフトウェアに係る特許権の行使において、以下のような権利行使は、権利濫用と認められる可能性がある。権利濫用である旨の主張は、権利主張に対する抗弁として、又は差止請求権等の請求権について不存在確認訴訟の請求原因として行うことが可能である。
@権利行使者の主観において加害意思等の悪質性が認められる場合。
A権利行使の態様において権利行使の相手方に対して不当に不利益を被らせる等の悪質性が認められる場合。
B権利行使により権利行使者が得る利益と比較して著しく大きな不利益を権利行使の相手方及び社会に対して与える場合。
経済産業省の発表文には、このあと、準則の詳細な説明と想定事例が続いていますが、私がまとめて、簡潔にご説明いたします。私はこれを起草した経済産業省の研究会のメンバーだったので、私の説明は、なるべく当たりさわりのないように工夫している経済産業省の公式説明より突っ込んだものになっています。
まず、準則のタイトルは「ソフトウエア」となっているのに、準則の内容や説明はすべて「ソフトウエア特許」についてだということです。著作権はどうするの?というご疑問がおありでしょう。この準則は一般法である民法1条3項の解釈なので、ソフトウエア特許だけに適用されるわけではありません。さしあたりソフトウエア特許について適用したというだけで、とうぜん著作権にも類推適用されます。
なぜソフトウエアかという点について、準則の脚注は、「ソフトウェアは多層レイヤー構造、コミュニケート構造を有し、そのユーザーのロックイン傾向が存在する」からと説明しています。これなら著作権にはもっとぴったり当てはまりますね。
つぎに@ABの要件ですが、@はいままでの権利濫用の判例をリステートしただけで、なにもあたらしい解釈ではありません。悪質な加害意思のことを「シカーネ」といいます。ABの順で次第にラディカルになっていきます。
Aは主観的なシカーネを超えて客観的な悪質性を問題にします。「不当に」というのは、脚注で、「正当な権利行使を逸脱すること」と説明されています。著作権は複製やその準備行為である送信可能化などの行為を、それぞれ権利者が独占することを許す権利なのですが、だからなにをやってもいいというわけではなく、たとえば、ライセンシーの販売価格や数量や客先を制限したり、抱き合わせをしたりすることなどは、正当な権利の行使ではないので、このAを満足します。この準則がとくに狙っている仮想敵は、接続拒否(interoperability妨害)です。さっきの多層レイヤー構造、コミュニケート構造というソフトウエアの本質的機能を妨害することは権利の濫用に当たります。
Bは利益考量です。ここには「不当に」という要件がありません。権利者の行為がべつに不当でなくても、その行為によって自分が得られる利益がたいしたことがないのに、それが相手方および社会に対して与える不利益が著しく大きい場合、権利の濫用に当たります。たとえば自分の権利を妨害目的で使う場合――レント・シーキング――などがこれにあたります。つぎの例は、発表文に添付された想定事例3のケースです。
マイクロ社はサーバ用OS市場とクライアント用OS市場で非常に大きなシェア(前者で7割、後者で8割)を握っている会社です。マイクロ社は自社が販売するサーバ用OSとクライアント用OSとの通信を行う上で必要となるプロトコルに関する情報を開示しないこととするとともに、プロトコルの一部に関連する技術について特許を取得しました。
インター社が作っているリナックス・ベースのサーバ用OSは、マイクロ社のクライアント用OSとの通信機能を実装しています。インター社は、自社のリナックス・サーバ用OSがマイクロ社の特許を侵害していることを知り、マイクロ社が望むライセンス料を支払う旨を伝えました。
これに対して、マイクロ社は、特許権侵害を理由として、リナックス・サーバ用OSの使用差止めおよび廃棄除却を求めてインター社を提訴しました。かりにこの請求が認められると、インター社では、リナックス・サーバ用OSの廃棄除却およびサーバ用OSの変更により必要となる大幅なシステム改修に伴う多大の損害が生じるとともに、システム改修に伴い一部サービスが利用不可能となることから、ユーザーも当該サービスを利用できなくなることによる損害が生じます。
想定事例の解説は、上のケースが、@シカーネとB利益考量を総合的に考慮した場合、権利濫用の抗弁が成立する可能性があると判断しています。このケースを類推すれば、私たちが目撃し、またはこれからおおいに目撃するであろう知的財産権を利用したいろいろな接続拒否(interoperability妨害)のたくらみに対抗できそうです。ちょっと考えただけでも、コンテンツ配信端末の互換拒否などがすぐ思い浮かびます。
3.4.保護期間
最初に申し上げたように、「創作のインセンティヴを最大化するには、著作権の保護を無限大にすればいい」という結論はまちがいで、どこかに最適値があるはずです。
著作権の保護も、収穫逓減の法則という物理的法則に服します。いま、日本でも著作権の保護期間延長についての議論が始まっていますが、ランデス・ポズナーがおもしろい試算をしています[11]。
いま、著作権者が、保護期間中1年に1ドルづつロイヤルティをもらうとします。年利i=10%とします。保護期間を永久とすると、この著作権者のロイヤルティの現在価値r=1/i=10ドルです。保護期間t=25年とすると、これの現在価値r=(1-(1+i)-t)/i =9.08ドルになって、永久保護との差が1割以下になります[12]。これ以上保護期間をいくら伸ばしてもロイヤルティの現在価値(インセンティブ効果)はほとんど増えません。このへんが保護の最適値なのではないのでしょうか。
第2図
このモデルに、もうひとつ、第1図の帰結をマッピングしてみましょう。著作権は独占権ですから、独占的利潤(レント)を作り出し、それが創作のインセンティブになります。しかし独占はそれ自体、社会的非効率(deadweight loss)を生み出します。
インセンティブ効果のほうは収穫逓減則に服しますが、社会的非効率のほうは保護の強さに比例します。保護期間を長くすると、その分だけパブリック・ドメイン作品が少なくなり、たとえば、著作権期間が満了した本をpdfでアップロードして、無料閲覧・ダウンロードを許しているGutenberg.comのライブラリーが比例的に減るという意味で、社会的非効率が増えます。
インセンティブ効果と社会的非効率の差、つまり社会的純効率が最大になる点が、知的財産権保護の最適値です[13]。もちろん、このグラフは概念図なので、たとえば保護期間何年が最適なのかを定量的に求めることはできませんが、どこかに最適値があることはたしかです。著作権法の歴史は、この最適値を求めるための綱引きだったといっていいのではないでしょうか。
4.独占禁止法
4.1.レント・シーキング
ここでは、まず、「レント・シーキング」という問題を提示します。これは著作権法内部の自浄機能などで対抗できるささやかな問題ではなく、著作権法の外側にある独占禁止法で戦わなければならない巨悪です。
コンテンツの世界で起こっている最大の問題はなんでしょうか? それは「法と経済学」の用語でいうなら、「レント・シーキング」です。ランデス・ポズナーは、知的財産権のトップ・プロデューサーたちの収入を調べています。クリントン前大統領が33百万(回想録の印税)、ブリトニー・スピアーズが39百万、トム・クランシーが48百万、ジョージ・ルーカスが200百万などなど(すべて米ドル)。
やっかみではなく、これほどの金額が、彼らが彼らの知的財産権を創作する費用(コスト)として正当化されるのだろうか――それがさらなる創作のインセンティブになっているのだろうか――という疑問です。宣伝費などは出版社のコストでべつに計上されています。これほどの所得は、「レント」として考えるほかに説明がつきません。
「レント」のもともとの意味は「地代」です。つまり、なにも労働をしないで受け取る利潤のことです。この概念を準用して、経済学では、「レント」とは、利潤を得るための費用を超えた純利潤のことをいいます。「レント」の特徴のひとつは、その供給が非弾力的なことです。つまり地代をいくら高くしても土地の供給は増えないし、地代をいくら安くしても土地の供給は減らないのです。ブリトニー・スピアーズが得た「レント」は「供給増加努力を呼び起こすのに必要な量をはるかに超える、需要量だけから決定される金額[14]」です。
ジョセフ・スティグリッツが言っています。「独占[者]が、自らが稼いだ超過利潤を・・非生産的に使ってしまう場合・・、とりわけ、独占[者]がその独占的地位を獲得したり維持するため・・資源をつぎこむときに、社会的な損失が発生する[15]」。「レント」を得るための費用がその社会的なベネフィットを上回るとき、そのような行動を「レント・シーキング」といいます。
ここでまた誤解しないでいただきたいのですが、ランデス・ポズナーも私も、「レント」が悪いとはひとことも言っていません。著作権法が創作促進のためのインセンティブとして人為的に作った「レント」は、法目的から演繹される必然的な帰結です。ただ、「レント」を使ってあたらしい「レント」を作り出す「レント・シーキング」は社会的に望ましくない行為(市場の失敗)だと言っているのです。
たとえば、著作権法104条の8で、私的録音録画補償金の2割以内で政令で決める額を権利保護・創作振興普及に支出できることになっていますが、これは本来はサンプリング漏れなどに対する補償などの財源なので、ロビィング資金ではありません。これを補償金の対象拡大のようなロビィングに流用しているとすれば、あきらかにレント・シーキングです。このようなレント・シーキングを抑制することが、独占禁止法の役割です。
著作権の自浄機能として、さきほど、アイデア不保護、フェア・ユース、ミスユース、保護期間という4つを挙げたのですが、これらはみな侵害訴訟での抗弁としてしか使えないという弱い防御用の兵器で、レント・シーキングによって巨大化した怪物を倒すための攻撃用兵器としては無力でした。
これができる唯一の法的ツールが独占禁止法です。もっとも、ここでは日本の法律である「私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律」に視点を限定していません。いままで挙げた判例もみんなアメリカのものでしたが、これ以後も、競争政策の先進国である米欧での経験を中心に話します。著作権を利用した独占事件はたくさんありますが、ここではいちばんの大物だったマイクロソフト事件に話をしぼりましょう。
マイクロソフト事件判決は有名で、だれでも知っているといわれそうですが、じつはこれが著作権とトレード・シークレットを利用したレント・シーキング事件だったことは、あまり知られていないと思いますので、ここであらためて復習したいと思います。
4.2.アメリカ――会社分割より情報開示
この事件は、1998年5月、クリントン民主党政権の司法省の提訴で始まりました。2年後の地裁判決[16]は、MicrosoftによるOS(オペレーティング・システム)市場独占維持行為(シャーマン法2条違反)などの違法行為を認め、Microsoftに対して、会社をOSとAP(アプリケーション・プログラム)の2事業に分割すること(構造規制)を命じるとともに、分割までの経過措置として、一定の行為を禁止しました(行為規制)。
MicrosoftはライバルNetscapeのブラウザーNetscape Navigator (NN) を排除しようとして、いろいろな手段をとったのです。判決が認定した事実はつぎのようです。
(1) Netscapeに対して、NNをプラットフォームとして設計しないように説得し、受け入れなければ技術情報(インターフェイス情報)を提供しないと脅した。
(2) OEM(パソコン・メーカー)に対して、WindowsとInternet
Explorer (IE) の結合を契約で義務づけ、IEアイコンの削除を禁止し、その他NNを排除するような流通/販売/技術的措置に引きこんだ。
(3) インターネット・プロバイダーに対して、IEとそのアクセス・キットを無料でライセンスし、その他NNを排除するような流通/販売/技術的措置に引きこんだ。
(4) コンテンツ・プロバイダーや独立のソフトウエア・メーカーに対して、IEを無料でライセンスし、Microsoftのアプリケーション・インターフェイス・ファミリーに引きこんだ。
地裁判決から1年後の2001年6月、巡回裁判決[17]が言い渡されました。
(1) OS独占維持については地裁判決を容認。
(2) ブラウザー市場独占企図については地裁判決を破棄(市場画定と参入障壁の立証不十分)。
(3) OSとブラウザ―の抱き合わせについては地裁に差し戻し(地裁が使った当然違法per se illegalではなく、ソフトウエア事業の不確定性にかんがみ、競争制限の立証を必要とする合理の原則rule of reasonを使うべき)。
(4) 分割については破棄差戻(審理不尽)。
地裁差戻審では、こんどはブッシュ共和党政権の司法省が、上の(3) OS/ブラウザー抱き合わせ(請求原因)と、(4) 会社分割(請求−−構造規制)というふたつの主張を取り下げました。したがって、請求原因としては独占維持、請求としては技術情報公開を含む一定の行為規制だけが残ったわけです。
巡回裁判決の半年後、司法省とMicrosoftは、連邦地裁の勧告を受けて、以下の同意判決案について合意に達しました。
(1) 技術情報開示:Microsoft は、XP発売後1年以内に、同社ミドルウエア製品(Internet Explorer/Java Virtual
Machine/MediaPlayer/Messenger/Outlook Expressおよびその後継システム)とWindowsとのインターフェイス情報(API)、および、サーバー・プロトコル情報をネット上で公開する。ミドルウエアの将来版については、その最後のベータ・テストまでにAPIを開示する。Windows将来版については、ベータ・テスト版15万本配布後にAPIを開示する。これらを使用するにあたって必要な知的財産権は有償でライセンスする。ただし、コピー防止、デジタル権管理(DRM)、暗号、認証、第三者知的財産権保護メカニズムなどについてはAPIを開示しない(例外)。また、Microsoftが、開示先を、ソフトウエア海賊版販売や知的財産権の故意侵害歴がなく、十分な事業計画を有するなどの条件をみたす相手に限定し、かつ、APIを使ったプログラムを
Microsoftが承認する中立の第三者に提出してMicrosoft仕様への適合を認証してもらうなどの義務を課すことを妨げない。
(2) デスクトップ「不動産」:PCメーカーが非Microsoftミドルウエアを搭載したり、Microsoftミドルウエアのアイコンを削除しても、Microsoftから報復を受けない。
(3) ライセンス条件:PCメーカー上位20社への基本ライセンス条件を公開する(大口割引きなどは別段)。
(4) 排他的取引:Microsoftソフトウエアの開発/支援につき独占契約は不可。
(5) 監視機関:中立委員3名からなる技術委員会を設置、Microsoftのソース・コードを含む機密情報へのアクセスを許す。
(6)期間:5年(違反あれば2年延長)。
地裁判事は、同意判決案が公共の利益にかなうものと判断してこれを承認しました[18]。同意判決のうちとくに重要なのは「技術情報開示」ですが、開示の例外が示唆的です。ここから、ミドルウエアでの市場力を利用してコンテンツ市場に参入、コンテンツ取引の必須情報、たとえばコピー禁止や課金システムなどのライフラインを抑えようというMicrosoftの戦略が見て取れるのです。「監視機関」は画期的なもので、司法省がいままでやってきた対IBM(1956年と1982年)、対AT&T(1982年)など独占事件の歴史の中ではじめて、モノポリストに対する技術面からの監視が登場しました。ついでにいうと、これらアメリカ独占禁止法の歴史に残る各事件も、真の争点は、被告の保有する知的財産権でした。
4.3.EU――文化政策としての競争政策
Microsoftの世界売り上げの1/3を占めるEUでは、1998年、アメリカのサーバー大手Sun Microsystemsが、サーバー用OSとAPのバンドリングを理由に、Microsoftを欧州委員会に提訴。2000
年8月、欧州委員会は、Microsoftが、Windows 95/98/NTにおける優越的地位を濫用してサーバー用OSの独占を企図している(条約82条違反容疑)とする最初の異議告知書(Statement of Objections――日本の審判開始決定書にあたる)を発しました。
1年後、欧州委員会は、上記にWindows 2000を加えるとともに、Windows
Media PlayerとOSのバンドリングについての条約82条違反容疑で第2回異議告知書を発しました。さらに1年後の2003年8月、多数の事業者とのインタービューにより、上記2回の異議告知書における事実認定に確証が得られたとして、最終異議告知書を発しました。最終異議告知書は、Microsoftがつぎの2点で、条約82条に違反していると言っています。
(1) 競争者のサーバーOSがWindowsと交信するために必要なインターフェイス情報の開示を制限し、サーバー用OS市場で競争者を不利な立場に置いた(パソコンOS市場における支配力を梃子にして、サーバーOS市場での独占を企図した)。
(2) AV再生用ソフトWindows Media PlayerをWindowsとバンドルして販売(かんたんに削除できない)することにより、AV再生ソフト市場での競争を阻害し、技術革新を停滞させた。
欧州委員会は、Microsoftがとるべき対策の概要をつぎのように提示しています。
(1) Microsoftの競争者がWindows パソコンとサーバーとの完全な互換性を確立するために必須のインターフェイス情報を開示すること。
(2) Windows Media
PlayerをWindowsからアンバンドルすること。
サーバーOS事件はアメリカとおなじleverage(梃子−−優越的地位の濫用)事件だったのですが、Windows Media Playerの抱き合わせ事件は、欧州委員会が職権でとりあげたもので、委員会の超長期的な先見性(ビジョン)が見てとれます。欧州委員会は (Microsoftも)、次世代の争点が、コンピューター産業とコンテンツ産業の主導権争いにあることを知っています。本件は、コンピューター産業(ハードとOS)を持たないが、アプリケーションとコンテンツではアメリカに対抗する力を持っているEUが、ポルトガルからギリシャに至る世界に誇るヨーロッパ文明の多様性を防衛しようとしている巨大な文化戦争の一環ととらえることができると思います。
結局、欧州委員会は、MicrosoftがWindowsによる優越的地位を濫用したとして、次の措置命令を発しました[19]。
(1) Windows Media
Playerのアンバンドル(バンドル版とアンバンドル版の両方を、後者が不利にならない条件でPCメーカーにオファー)すること。
(2) サーバーOSの接続情報(コード)を開示すること。
(3) 5億ユーロ弱(約650億円)の過料を支払うこと。
(1) と(2) の命令は欧州内にかぎられます。欧州委員会競争総局のMario Monti委員長(当時)は、「命令を『世界中』とすることもできたが、アメリカその他の国の競争当局の顔を立てて『欧州内』とした」と言っています。Microsoftの弁護士によると、協議の中で、Microsoftは競合するメディア・プレーヤーも搭載した版のWindowsを「世界中」でオファーするという条件を出したのですが、欧州委員会が聞きいれなかったそうです。
Microsoftはこの決定の無効を主張して欧州司法裁判所に提訴しましたが、2007年9月、第一審裁判所はMicrosoftの訴えを棄却しました。
その間、欧州委員会は、Microsoftが接続情報の開示義務を果たしていないとして、追加過料4億ユーロの支払いを命じました。Microsoftは欧州司法裁への上訴を断念、欧州委員会に対して措置命令の完全実施――技術情報の大幅開示と知的財産権利用料の大幅値下げ――を約束しました。2008年2月、欧州委員会は、Microsoftが2004年是正命令を期限の2007年10月までに果たしていなかったとして、追加過料9億ユーロ弱の支払いを命じました。
5.おわりに
「著作権と競争政策」というテーマをもらったのですが、私としては「競争政策」より、著作権法の目的である「文化の発展」の視点で考えてきたつもりです。
芸術とは、人間が、その本性を超えた高みに作り出した所産です。その意味では、温室咲きの花です。市場原理という冷たい風の中では育ちません。
18世紀まで、芸術は、王侯貴族や教会の庇護のもとに生き延びてきました。フランス革命以後、芸術は、国家が著作権という形で与えた独占によって、市場原理から隔離された温室のなかで生きてきました。
20世紀後半、芸術が大衆(ポップ)化するにつれて、それはメディアという巨大ビジネスのレント・シーキングのなかに囲い込まれていきました。
21世紀、インターネットの到来によって、巨大メディアによる芸術の独占が破れ、あたらしいポップ・カルチャーの花が開こうとしています。これに対して、20世紀に獲得した既得権にしがみつく旧メディアが必死の抵抗を試みているという情景が、私には見えます。
結局「インセンティブ仮説」は検証されたのでしょうか? 講義の前半では、この仮説で説明できない現象をランダムに挙げてきましたが、だからといって、仮説が偽(false)であるという決定的な事実があったわけではありません。ただ、著作権保護に最適値があること、現状はそれをかなり超えている――著作権法の目的である文化の発展にマイナスになっている――ことはご納得いただけたのではないかと思います。
クリエーターとユーザーがインターネットで直結することによって、いずれ21世紀ルネッサンスの花が開く。こんなことを夢みながら、きょうの原稿を書きました。ご静聴ありがとうございました。
注
[1] ほかに、いわゆる自然権仮説というのがあります。これは、創作が、何もないところから人間の頭脳が作り出したものだから、当然その人間に原始的に帰属するという、ジョン・ロックが土地とその生産物の所有に関して提示した仮説の類推です。自然権仮説の神がかり的なところを嫌って、これをもっと現代的に構成したのがいわゆる擬制財産権仮説です。著作権法の目的は、情報という取り引きしにくい無体物に対して物権類似の権利を与えて商品化し、その取り引きを活発にしようという経済政策だという仮説です。自然権仮説は検証不可能だし、擬制財産権仮説は歴史的検証が必要で、市場が立ち上がったばかりのいま議論するのは時期尚早と思われるので、いずれもきょうはこれ以上触れません。ほかにも、著作権とは、創作促進目的で徴収・支出される国の補助金だというドライな仮説もあり、たいへん面白いのですが、多数の支持は受けていないようです。
[2] WILLIAM
M. LANDES & RICHARD A. POSNER, THE ECONOMIC STRUCTURE OF INTELLECTUAL
PROPERTY LAW (The Belknap Press of Harvard University Press 2003).
[3] 需要の価格弾力性とは、購入量の変化を価格の変化で割った値です。JACK HIRSHLEIFER & AMIHAI GLAZER, PRICE THEORY AND
APPLICATIONS, 5th ed. (Prentice Hall 1992) 121ff. 一般の商品では、価格が上がると購入量が減るので、需要の価格弾力性はマイナスで、需要曲線は右下がりに表示されます。
[4] たとえばhttp://www17.ocn.ne.jp/~tadhomma/DigiConComp.htm
[5] 2007年4月、世界3位の音楽レーベルEMIとAppleが革命的な共同声明を発しました。EMIがAppleのiTMSで配信する楽曲に、高音質のクラスを設け、これにはDRMをつけないというのです。価格は低音質クラスの30%アップです(アルバムは価格据置き)。2007年5月、こんどはインターネット小売り最大手のAmazonが、年内に音楽配信に参入すると発表しました。DRMなしで,しかも圧縮フォーマットはDRMが利かないMP3です。MP3はAppleも追随するもようです。これからのコンテンツ配信は、DRM無しが標準になるでしょう。海賊はリスク・マネジメントの手法で、確率的に押さえ込めます。AppleとAmazonといういずれも根っこからのビジネスマンと、長年著作権に寄生してきたコンテンツ産業の経営者たちの差がついてきました。2007年10月、Appleは、Amazon(および同様の音楽配信を始めたWal-Mart)に対抗するため、DRMなしの価格をDRMつきと同じ99セントに値下げしました。これが競争です。2008年1月、スパイウエアで最後までがんばっていたSony BMDもついに屈服して、DRMなしMP3に踏み切りました。2008年3月、こんどはオーディオ・ブック最大手のランダム・ハウスがDRMなしのMP3に踏み切りました。ペンギン・ブックスもこれに追随するもようです。なだれが起こっています。
[6] 中山信弘『著作権法』(有斐閣2007年)の冒頭は「著作権法の憂鬱」と題して、5ページにわたって、著作物の多様化にもかかわらず、著作権法が、依然として、硬直的な19世紀的パラダイムにしがみついていることを、やや絶望をこめて指摘しています。
[11] LANDES & POSNER、前掲書214ページ。
[12] ランデス・ポズナーは期首払いで計算していますが、この数字は私が期末払いで計算したものです。
[13] 最適値は、両曲線の交点ではなく、各曲線の微分係数が等しくなる横軸の値です。この点で、メリットとデメリットの差(社会的な純利得)が最大になります。
[14] ジョセフ・E・スティグリッツ、藪下等訳『ミクロ経済学』(東洋経済新報社1995年)283ページ。
[15] 同上書432ページ。
[16] 97 F. Supp. 2d 59 (D.D.C. 2000).
[17] 253 F. 3d 34 (D.C. Cir. 2001).
[18] 2002
U.S. Dist. LEXIS 22864.