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本間忠良 衝撃の新刊 知的財産権と独占禁止法−−反独占の思想と戦略
経済法あてはめ演習60選(日本語)Antimonopoly Act Exercise 60 Cases
情報革命についてのエッセイとゴシップ(日本語) Essays and News on Information Revolution
映像コンテンツと競争法
ーーテレビ映像コンテンツのインターネット配信(講演原稿)
2005年11月5日明治大学法科大学院での公開講演
本間忠良
目次:
はじめに
1.1.現状認識
1.3.産業構造問題(下請法の情報成果物改正)
2.1.現状認識――「通信と放送の融合」?
3.1.現状認識
4.1.現状認識
はじめに:
本間です。いまこのお向かいの日本大学法科大学院で経済法を教えていますが、その前は公正取引委員会の委員をやっていました。私は古くからコンピューターおたくだったので、委員のときにも、ソフトウエアとかデジタルとかいう案件にはかならす積極的に参与していました。
その仕事のひとつが、これからお話しする「デジタルコンテンツと競争政策に関する研究会報告書」で、そのサマリーだけ、資料につけてあります。報告書全文は公正取引委員会のホームページに出ていますので、興味のある方は、あとで見てください。
ただ、官庁系研究会の報告書ということで、関係グループの言い分を公平に取り上げて、その上で政策的なバランスを少し動かすという微温的な書き方なので、退屈な読み物です。今日の私の話は、報告書を読み上げるのではなく、その底に流れる競争思想を私なりにラジカルに表現していくつもりです。
ただ、その前に、私に与えられたテーマである「競争法」について、ひとこと言わせてください。競争法を理解するためには、法文の解釈などよりも、まず、その底に流れる経済学を理解していただきたいのです。
いま私たちが住んでいる資本主義の世界では、自由競争が経済の基本原則です。これは商品の生産や流通を自由な競争にまかせておくことによって、資源の最適な利用と生産の最大化が実現するという原理で、資本主義という前提をとる以上、理論的にも経験的にもその正しさが立証されています。ひとつのモデルを資料に書いておきました[1]が、読めば分かるので、説明は省略します。コンテンツという商品についても、この原理が完全にあてはまります。
「コンテンツは文化財であって商品ではない」という主張があることはよく承知しています。ただ、それなら、文化財でお金儲けをする――文化財と商品のいいところ取りをする――ことはやめてください。というより、文化財としてのコンテンツと、商品としてのコンテンツという2種類あると考えるのが正しいのでしょうね。私の今日の話は、たとえばポップ音楽や娯楽映画のような「商品としてのコンテンツ」に限っています。
今日の話の結論を先に言ってしまうのですが、日本のコンテンツ関連業界の人たち――ここにもいらっしゃると思うのですが――は、競争という感覚をほとんど喪失していると、私は思っています。この人たちは、コンテンツが著作権保護を受けているために本質的に独占権であり、自分たちが競争とは無縁の世界に住んでいると思っていた――それがいまはじめてインターネットから強烈な競争を仕掛けられているというふうに、私は見ています。
話をもとに戻して、自由市場は、単独事業者による独占行為や、複数事業者によるカルテルによってつねに不安定化にさらされます。これが「市場の失敗」です。そのため、市場における自由な競争の確保のために必要最小限の「法の関与」が要求されます。それが競争法です。日本では、1947年制定の独占禁止法がそれに当たりますが、この講演では、ほかに、米国でいうミスユース法理やフェアユース法理をも広義の競争法概念に含めています。
稿末の付録を見てください。日本独占禁止法の実体規定は、3条前段「独占行為の禁止」と3条後段「カルテルの禁止」と19条「不公正な取引方法の禁止」の3本柱からなっています。いずれも厳密な定義があって、独占行為は「排除」または「支配」、カルテルは「相互拘束」がキーワードですが、ほかに「競争の実質的制限」と「公共の利益に反して」が共通の要件です。
不公正な取引方法は、公正取引委員会の「一般指定」として、16項目の違法行為が限定列挙されていますが、いずれも「公正競争阻害」が要件です。16項目の中で、今日の話で出てくるのは、1項/2項の「取引拒絶」、3項/4項/5項の「差別」、10項の「抱き合わせ」、11項/12項/13項の「拘束条件付取引」とくに12項の「再販価格維持」、それから14項の「優越的地位の濫用」です。
なんだかバラバラのようですが、そうではありません。独占禁止法のいちばんの敵は「独占」で、それが複数の事業者によって行われれるものを「カルテル」、その他いろいろの形態で行われるものを「不公正な取引方法」として個別に対処しているのだと、構造的にご理解ください。
さて、本題にはいりましょう。2003年3月、公正取引委員会が招集した学識経験者や実務家からなる「デジタルコンテンツと競争政策に関する研究会」が、「デジタルコンテンツ市場における公正かつ自由な競争環境の整備のために」と題する報告書を公表しました。ここで「コンテンツ」というのは、デジタル・コンテンツのことで、報告書は、テレビ映像コンテンツのインターネット配信という特殊な問題に目線を集中しています。
報告書は、背景や視点といった前置きの後、(1)
コンテンツの制作、(2)
ネットワークを通じたコンテンツの流通、(3)
コンテンツに係わる著作権等の管理、(4)
コンテンツの保護と競争政策という4つの問題をとりあげて、それぞれを独占禁止法に照らして評価しているので、私もそれに沿って話します。
1.1.現状認識:
いまテレビ映像コンテンツの大半が、テレビ局から番組制作会社への委託契約で作られています。民放でいうと、制作費は広告収入という上限が決まっており、いわゆる「渡し切り」という形態なので、放映してからの視聴率などは事後的にしか考慮されません。
だから、一次利用、つまりテレビ放映の段階では、いい番組を作ろうというインセンティブが働きません。二次利用、とくにインターネット配信でインセンティブを確保できるといいのですが、この二次利用がぜんぜん行われていないのです。その原因のひとつが権利帰属問題だという指摘が、番組制作会社側からありました。
テレビ局からの委託で番組制作会社が作ったコンテンツの著作権が、どちらに帰属するのか法律上はっきりしていないため、やはりお金を持っているテレビ局のほうが交渉力が強くて、(1)
はじめからテレビ局に帰属する契約になっているとか、(2)
番組制作会社に帰属するのだが、契約によってテレビ局に譲渡することになっているとか、(3)
番組制作会社に帰属するのだが、その二次利用の交渉は、契約で、専属的にテレビ局が行うことになっている(「窓口権」)とか、(4)
あとで二次利用のお客さんを見つけてきたのだが、窓口権を持っているテレビ局が動いてくれないとか、(5)
そもそも番組を納品してから契約書に調印するのが現実だとか――、たしかに、独占禁止法19条(一般指定14項)の「優越的地位の濫用」に該当する事例がありそうです。
優越的地位は、規模の格差、依存度、流動性など個別的に判断しますが、テレビ局は、稀少な資源である電波周波数[2]の割り当てを受けており、したがって本来的に寡占構造であり、市場力market
powerの推定を受けるため、競争法に対してとくにsusceptibleで、本来的に優越的地位にあると考えられます。
そこで、たとえば、著作権の帰属については、番組制作委託契約の締結において、(1)
著作権法上、発注者に原始的帰属が認められているわけでもないのに、それを主張するとか、(2)
譲渡を強要するとか、(3)
契約を故意に不明確なものにしておいてあとで譲歩を強要するとか、(4)
窓口権を取り上げるとか、(5)
取り上げた窓口権を使わないでサボタージュするとか――などの行為は、優越的地位の濫用になる可能性があります。
ただ、テレビ局のほうにも、(1)
そもそも財産権はお金を出した者がとるのだとか、(2)
番組制作はいわゆる「完パケ」ばかりではなく、局側がイニシアティヴをとるものもあるとか、(3)
窓口権にしても、実際には番組制作会社から二次利用の申し出がほとんどないとか――いろいろ言い分があるので、どちらが正しいかはケースバイケース、つまり、優越的地位には違いないけれど、それが「公正競争阻害」にあたるのかどうかという事実問題になります。だから契約書をしっかりしてもらうことが、独占禁止法発動の前提です。
1.3.産業構造問題:
話がちょっとわき道にそれますが、数年前、英国の経済誌エコノミストが、「時代に忘れられた国――日本」という特集をやっていました[3]。要するに、日本でソフトウエアが育たないのは、大企業をトップにいただく下請け・孫請け・曾孫請けというピラミッド構造のせいだというのです。シリコン・バレーではこの産業構造がはるかにフラットで、一介のSEが書いたソフトが大ヒットして億万長者になったというような話がいくらでも転がっています。
先ほど申し上げたように、いまテレビ映像コンテンツの大半が、テレビ局から番組制作会社への委託契約で作られています。民放でいうと、制作費は広告収入という上限が決まっており、そのしわ寄せが番組制作会社へ、それが順繰りにタレント会社、技術会社など孫請けに転嫁されていって、ほんとうのクリエーターたちがピラミッドのいちばん底辺で希望のない日々を送っている――という切実な訴えがありました。
ただ、誤解しないでくださいね。公正取引委員会は、プロレタリアが資本家に搾取されていてかわいそうというような空想的社会主義のような動機で動いているのではなく、独占禁止法1条の「公正かつ自由な競争を促進し、事業者の創意を発揮させ、事業活動を盛んに・・する」という目的に沿って動いているのですから。
本当のクリエーターたちに、能力に応じたリターンをとってもらうことが、コンテンツの制作を盛んにする原動力です。この結論と、さっき言った契約をちゃんとしなさいという二つの要請から、ひとつの法改正をやりました。それが下請法の情報成果物改正です。
独占禁止法19条(一般指定14項)の特別法として、1956年の下請代金支払遅延等防止法、つまり「下請法」は、従来から、製造委託と修理委託という2種類の取引きにおける親事業者と下請事業者(資本金3億円、1千万円で区分[4])とのあいだの取引き(「下請取引」)に関して、親事業者に対して、下請代金の支払期日や注文書の交付について一定の義務を負わせ、給付の受領拒絶、下請代金の支払遅延や減額などの行為を禁じるなど、一般に中小企業に属する下請事業者を保護してきました。
平成15(2003)年、この法律を改正して、「製造委託」および「修理委託」に加えて、(1)
プログラムや放送番組などの「情報成果物の作成委託」および
(2) 情報処理などの「役務の提供委託」という2種類の下請取引を追加しました。
この場合における親事業者と下請事業者のあいだの資本金区分を引き下げ(5千万円、1千万円−−プログラムと情報処理については政令で据え置き)、注文書の交付時期を「直ちに」と厳格化するとともに、禁止行為に「給付をやり直させること」を追加して、親事業者による優越的地位の濫用を抑え込もうとしています。
情報成果物では、発注と給付がある程度相互依存的であったり、プログラムの場合はオンラインであったりすることがあるので、「正当な理由」を条件としてこの注文書交付の「直ちに」を緩和してます。
テレビ局も番組制作会社も、ペーパーワークが増えたので苦い顔をしているという批判も聞きますが、なにもわかっていませんね。米国のソフトやコンテンツが元気なのは、こういう契約社会、そして訴訟社会が基盤になっているからで、なんでもなあなあにしておいて、あとで愚痴ったり、ほくそ笑んだりしている陰湿な談合社会からは活力は生まれません。
2.1.現状認識――「通信と放送の融合」?:
つぎに「コンテンツのネットワーク流通」について考えましょう。
激しい競争のもとにある映画産業とちがって、放送産業は、稀少な電波周波数の割当てを受けていることから、映画よりはるかに強い政府規制のもとにあります。規制法と競争法は法目的が違いますから、これから話すことは報告書には書いてありません。ライブドア対フジテレビや楽天対TBSなど、ネット業界に狙われたテレビ業界が騒然としている状況を見た私の感想です。
日本ではテレビ放送の規制は放送法によって行われています。放送法9条は「マス・メディア集中排除原則」として、新聞との兼業を禁止していますが、同じ放送法2条の2の要請である「放送機会の最大化」による例外で、新聞との兼業は否定できないものになっています(新聞による持株関係は複雑ですが、おおざっぱに言って、日本テレビ――読売、TBS――毎日、フジテレビ――サンケイ、テレビ朝日――朝日、テレビ東京――日経)。
また、放送法52条の3「特定者からの番組提供禁止」で要請されている地方局の主体性についても、地方局の番組制作能力の不足や広告主の東京集中などのために、事実上の5大ネットワーク系列が形成されて、米国流のローカリズムは形成されることがありませんでした。衛星放送によって、全国カバーのコストが激減し、さらに地域性もなくなって、地方局の存在理由が急低下しています(コミュニティ放送はケーブルTVがメイン)。
米国では、1982年と1985年のFCC規則改正で、「マス・メディア集中排除原則」が大幅に緩和されました。さらに、1996年の電気通信法で、1970年のフィンシン規則[5]、つまり、放送ネットワークによるコンテンツへの出資・所有・配給を禁止する規則と、PTAR[6]、つまり、ゴールデン・アワーに3大ネットワーク番組を放映することを禁止した規則が、いずれも廃止されました。
米国では、規則の目的を達成した――つまり、番組制作会社が、地方テレビ局へ直接番組を売り込むシンジケーション・システムのおかげで力をつけて、テレビ局を呑み込むまでに成長した――から規制をやめたのです。
米国では、上流のコンテンツと下流の通信という2大勢力による放送産業の分割・吸収が進行中です。AT&TによるTCI(ケーブル放送)買収、ディズニーによるABC買収などがその例です。米国では、異なるメディア間の相互参入による激しい競争が起こっています。
日本では、(1)
電波割当て、(2)
著作権、(3)
日本語、(4)
外資規制――という四重の保護のもとで高利潤経営を享受していた放送事業者には、新規事業に乗り出す意欲がとぼしく、いまや下流のインターネット業界からの侵略のターゲットと化しているというのが、いまの事件の本質のように私には見えます。
報告書に戻ります。まず現状認識です。
これは映像コンテンツだけでなく、むしろいま動き出している音楽のインターネット配信でも懸念されることなのですが、コンテンツ・プロバイダーと、コンテンツの流通/集客/認証/課金/決済をおこなうプラットフォーム事業者が排他的な関係を結んで、それが競争事業者の事業活動を困難にしたり、新規参入を阻害するような場合は、独占禁止法(一般指定11項)違反になる可能性があります。
とくに、コンテンツ・プロバイダーがプラットフォーム事業者の対ユーザー料金を拘束する場合は、独占禁止法(一般指定12項)の原則違反です。独占禁止法23条4項の著作物の再販に関する適用除外はインターネット配信には与えられていません(適用除外は、新聞、雑誌、書籍、音楽レコード・テープ・CDの6品目に限定されています)。
3.1.現状認識:
次に、コンテンツと著作権等の関わりを考えましょう。「等」というのは隣接権です。ここでは、著作権法の復習をすることになりますので、お持ちの方は法文を見ながら聞いてください。
まず、著作権法16条で、映画の著作者とは、制作、監督、演出、撮影、美術等を担当してその映画の著作物の全体的形成に創作的に寄与した者、つまりモダン・オーサーたちです。しかし、これでは後々の流通に困るので、一般の映画著作物であれば、29条1項によって、モダン・オーサーたちの著作権は(すべて)映画製作者に帰属します。
俳優(実演家)も、91条2項で、自分が出演した映画については、あとで録音録画権を主張できません。これをワンチャンス主義といいます。だから映画製作者が全権を握り、二次利用についても映画製作契約で処理しています。
ところが、放送事業者は、29条2項で、自分が放送のための技術的手段として製作する映画の著作物、つまりテレビ映画については、放送権・有線放送権・公の伝達権・複製権・対放送局頒布権しか帰属を受けていません。これでなにが足りないかというと、放送事業者は、モダン・オーサーや実演家から送信可能化権の帰属を受けていないのです。日本の著作権法は、旧メディア全員に送信可能化権をばら撒いておきながら、それをかき集める装置を作らなかったのです。無責任というより、なにがなんでもネットを閉め出そうという旧メディアの執念が見えます。映画をアップロードしようと思ったら、劇場用映画では、製作者と実演家から許諾を取ればいいのですが、テレビ映画では、いろいろなモダン・オーサーたちと実演家から、いちいち許諾を取り付けなければならないということです。これは事実上不可能です。
また、実演家は、91条1項で録音録画権、92条1項で放送権、92条の2で送信可能化権を専有していますが、実演家から放送権の許諾を受けた放送事業者は、93条1項で、放送のための録音録画についても許諾も受けており、94条で、その録音録画を用いてする本放送、再放送、提携地方局での放送の許諾も受けています(ただし後者の場合は94条2項で報酬の支払いが必要です)。
ところが、インターネット事業者(p2pユーザーも含む、以下同様)は、インターネット配信のためにどうしても必要な録音録画の許諾を、送信可能化権の許諾とはべつに、実演家からあらためて取り付けなければなりません。
子供のピアノお稽古風景を音声入りでblogにアップすると、作曲家の送信可能化権を侵害します(バイエルなら著作権が切れていますが、中田義直はだめ)。これはどう考えても公正利用ですが、送信可能化権を制限してくれる条項はどこにもみつかりません(30条、38条1項、35条2項いずれも使えません)。私が間違っていたら教えてください。この国はどこへ行ってしまうのでしょうね。
放送事業者とくらべて、インターネット事業者が抱えているハンディキャップは、まだまだあります。たとえば、インターネットには、44条の放送用一時的固定のような公正使用権がありません。
また、著作物を放送しようとする放送事業者は、著作権者と話がつかないときは、68条の裁定制度があって、これを後ろ盾に業界間交渉を進めるのですが、インターネットにはこれもありません。
また、39条「時事問題に関する論説の転載」や40条2項「公開演説の掲載」は、放送と有線放送には、憲法21条「表現の自由」をサポートする報道機関という大義名分から許されているのですが、これがインターネット配信には許されていません。インターネットは、サポートどころか、究極の「表現の自由」そのものなのですが、その可能性は封じられています。
インターネットでのコンテンツ配信は、放送とくらべて、著作権法上、これだけのハンディキャップを負わされています。ライブドアや楽天がテレビ局を買収しても、この著作権の壁は越えられません。
いま、地上波デジタル放送の開始にともない、IPマルチキャスト放送を、著作権に関して有線放送と同じ扱いにしようというアイデアが出ていますが、これはもともとインターネットではなく、端末もPCではなく専用ハードだし、テレビ番組の同時再送信に限定されていて、アーカイブの利用や自主制作は無期延期だ・・などなど、要するに、双方向のケーブルテレビにすぎません。双方向といっても、テレビ局の台本の中のお遊び双方向にすぎません。そういえば、最近のNHKの視聴者ネット参加番組のくだらないこと−−伝達される情報量がお遊びのおかげで激減−−これで放送と通信の融合などとは笑わせます。番組制作権を掌握している放送事業者が、いまの寡占・規制体質のままでネットに降臨してこようという虫のいい話でした。この体制がまた何年も続くのでしょうから、むしろバッド・ニュースでした。
いまの日本の著作権法はアンチ・インターネットで凝り固まっています[7]。もっとも、著作権法は、1条で、「・・著作者等の権利の保護を図り、もって文化の発展に寄与する」という使命を受けているので、あたらしい産業の育成など、法の目的にはありません[8]。ただ、なにも、技術の進歩をここまで必死になって邪魔をして、結果的に文化の発展を妨害しなくてもいいじゃありませんか。日本でコンテンツ・ルネッサンスを起こそうと思ったら、著作権法以外のところに、そのためのエンジンを見つけなければなりません。それが私は競争原理だと思うのです。
これは公正取引委員会だけでできることではありませんが、公正取引委員会としては、とにかくまず下請法を改正して、独占禁止法がクリエーターとファンの味方だという立場をはっきりさせておいてから、ひきつづき、コンテンツ・ルネッサンスへの道の上に横になっている独占やカルテルを排除するため努力しています。
ただ、独占禁止法3条というツールが大きすぎて使いにくいので、米国で反トラスト法の双子の兄弟として活躍しているミスユース法理――日本でいうと民法1条3項の権利濫用――に、私たちの目が向いています。これについてはあとで申し上げます。
独占禁止法の縄張りではありませんが、日本のコンテンツ・ルネッサンスのためには、企業買収などという金貸し資本主義的な邪道よりも、本当のクリエーターであるコンテンツ制作会社を育てて、ネットに直接売り込める(シンディケーション)環境を開くため、米国ではもうその役割りを終えたフィンシン規制のようなものが、日本ではあらためて必要ではないのでしょうか。
報告書に戻ります。いままで申し上げてきたことは、これから申し上げる権利の集中処理に関する説明へのイントロダクションだったと考えてください。
コンテンツのインターネット配信が、さきほど申し上げたように、あたらしいメディアとしての便益をまったく与えられていないという状況下で、著作権等の集中管理には、インターネットによるコンテンツ配信の未来がかかっています。
映像コンテンツの権利集中処理はまだできていないので、報告書は、すでに長年実績のある音楽コンテンツの集中処理を念頭において書かれています。映像コンテンツの権利集中処理を考えるための頭の体操ということで聞いてください。
もともと、著作権等の集中管理は、コンテンツの取引コストを軽減できる点で社会的に望ましいものですが、1939年の「著作権に関する仲介業務に関する法律」が、(1)
小説、(2)
脚本、(3)
楽曲をともなう場合における歌詞、(4)
楽曲の4分野について、著作権の集中管理業をそれぞれ1団体に限定していました(日本文芸著作権保護同盟、日本脚本家連盟、日本シナリオ作家協会、日本音楽著作権協会)。
しかし、2001年の「著作権等管理事業法」によって、分野を問わず一定の要件を満たせば登録だけでこれができるようなったため、2005年7月現在、たとえば音楽で13社が登録しており、ある程度の競争環境が生じつつあります。
しかし、旧法時代の4団体による権利者と利用者のロックイン状態がまだ解消していないとみられるため、独占禁止法による監視−−および場合によっては積極的関与−−が必要です。
たとえば、(1)
利用者の店舗面積などによる年間包括契約とか、(2)
差別的なネットワーク料金とか、(3)
権利者との包括または排他的契約による新規参入阻害とか、(4)
団体による排他的料金設定とか――古い慣行がまだ残っており、さらに、(5)
包括契約の場合、複数の権利管理事業者と契約しなければならないことがあって[9]、権利料金が重複するなどのあたらしい問題点が指摘されています。個別契約も可能ですが、まだ古い時代の惰性が残っているとみられます。
個別ライセンスは、以前は手間がかかって不可能といわれていたのですが、いまは、コンピューターによって取引コストが激減し、これの可能性が復活しつつあります。権利者への配分についても、現行のサンプリング方式から個別計算方式への動きがあります[10]。
これは報告書に書いてありませんが、市場原理主義者の私からみると、集中管理団体による価格決定メカニズムが、長年の独占のおかげで、市場感覚が欠落したままになっていることに気づきます。
たとえば、JASRACでは、音楽のインターネット配信の著作権料(ダウンロード)が売上げの7.7%または7.7円のいずれか多いほうと決まっていますが、このあとのほうの7.7円という固定額が問題です。いまの1曲100円が50円に下がると、料率は15.4%になります。もし10円まで下がると、料率は77%になります。この決め方は100円をボトム・プライスとしてそれ以下への価格競争を罰していることになり、価格固定効果があります。
これが法律違反かどうかというような問題以前に、一般に、値下げすると売上数量が増えるので、著作権者の減収にはならない――もしかすると増収になるかもしれない――ためしてみよう――これが市場原理です――という感覚が欠落しているように、私にはみえます。はじめに申し上げたように、このような精神構造こそが、現在のコンテンツ業界の最大の問題点だと、私は思っています。
話をもとに戻します。各利用区分のうち特定の管理事業者の市場占有率が高い場合、文化庁長官が一定の管理事業者を「指定著作権等管理事業者」とし(現在JASRACや日本レコード協会など6事業者)、一定の資格を持つ「利用者代表」との協議に応じる義務を課し、協議が整わない場合、裁定をおこなうことになっています。
利用者代表が事業者団体である場合、指定管理事業者との間で、使用料にかかわる協議をおこなうことについて、公正取引委員会は、(1)
利用者は指定管理事業者と個別交渉が可能である(信託譲渡ではどうかな?)、(2)
利用許諾という財は排他性がない(書生論だね)という理由で、独占禁止法適用除外規定をおく必要がないと、国会で答弁しています。
商業用レコードの放送用二次使用料についての実演家団体やレコード製作者団体と放送事業者との交渉や、貸レコード報酬についてのレコード製作者団体と貸レコード業界との交渉に関しては、それぞれ独占禁止法適用除外規定があります[11]。
インターネット配信についても、いろいろな業界団体が動いていますが、おたがい綱引きになっていて、なかなか展望が開けません。技術だけがどんどん進んで、米国の独走態勢になっています。日本で権利処理がもたついているうちに、BMI/ASCAP権利処理による米国からの送信に走るだろうという観測もあります。
経団連も動いています。今年3月、「映像コンテンツのブロードバンド配信に関する著作権関係団体と利用者団体協議会の合意」として、テレビドラマのストリーミング配信について、来年3月までの暫定合意ということで、文芸、音楽、レコード、実演それぞれの団体の取り分として、合計8.95%[12]と決めたそうです。
このような動きを独占禁止法の目で見たらどうみえるでしょうか。この辺も報告書には書いてありません。同業者が集まって値段を決めているのですから、どう考えても独占禁止法3条後段違反のカルテルですよね。もっとも、米国連邦最高裁に面白い判決があります。
BMI/ASCAP対CBS
(1979)[13]:BMI/ASCAP(いずれも政府との同意判決(1941/66)下にある)は、数万人の音楽著作権者から非排他的ライセンスを受け、これにもとづいて、ラジオ・テレビ局に対して、一定期間、管理曲を自由に放送できる権利(料金は広告収入の何%または固定額で、曲数に比例しない)を許諾する著作権集中管理業者である。CBSは、BMI/ASCAPが、数万の音楽著作権者たちによる価格カルテル組織であり、「ブランケット・ライセンス」が、音曲を使わない番組からも料金を取る硬直した収奪システムで、原則違法の価格固定にあたると主張。最高裁:このシステムは効率達成のため不可欠なので「合理の原則」が適当。個別許諾の可能性も十分ある(同意判決の主内容)から競争制限ではない。著作権者からのライセンスが非排他的であることが決定的である。差戻審:著作権者は架空の競争者。
これはJASRACと同様、何万人もの著作権者を競争事業者と考えることはできないというもっともな話で、さっきの指定著作権等管理事業者についての公正取引委員会の国会答弁もこれを意識していたのだろうと思いますが、上の経団連合意はもう少し慎重にしないといけないなと思います。窓口権をそのままにしておいたら5大キー局間のカルテルだということになるし、包括契約にしても、いまのIT技術を使ったら、個別処理の可能性はBMI/ASCAP判決当時よりはるかに大きくなっているのですから・・。
4.1.現状認識:
報告書の「コンテンツの保護と競争政策上の考え方」の章にははいります。デジタル・コンテンツが複製・改変がきわめて容易なため、旧来の著作権保護だけでは、権利者が利得機会を失って、創作のインセンティブを喪失する――デジタル環境における著作権の執行不能――という現象が指摘されて久しいのですが、だからどうすればいいのか――という課題に対しては、いろいろな答えがありそうです。そのひとつがDRMです。もうひとつ、私がひそかに考えているのが――何もしないことです。まあ、DRMについて考えましょう。
コンテンツを財産権として擬制するための一つの方法として、さまざまなDRM(Digital
Rights Management)システムが用いられています[14]。大きく分けて2種類あります。
(1) コピー・コントロール:コンテンツの複製を禁止(たとえばコピーガード)または複製世代数を限定するシステム(たとえば録音録画機器に組み込まれているSCMS(Serial
Copy Management System))。
(2) アクセス・コントロール:コンテンツを暗号化し、料金を払った利用者だけにパスワードなどによる復号を許すシステム(たとえばDVDのCSS(Content
Scramble System)や放送のCAS(Conditional
Access System))。
ただこれらの技術的制限(保護)手段を回避する技術がつねに出現する(たとえばDVDのCSSを解除するDeCSS)ため、このような回避技術を抑圧する包括的な法制がコンテンツ業界から要求されています[15]。たとえば1996年WIPO(世界知的所有権機関)の著作権条約および実演/レコード条約や米国1998年デジタル・ミレニアム著作権法(DMCA)が有名ですが、日本でも著作権法と不正競争防止法がこれについて規定しています。
(1) 著作権法120条の2(2条1項20号に定義):技術的保護手段(権利者の意志に基づくコピー・コントロール)を回避するための専用装置やプログラムを公衆に譲り渡しまたはその目的で製造などし、または業としてかかる回避をおこなう者に対する刑事罰。
(2) 不正競争防止法2条1項10/11号:営業上用いられる技術的制限手段(SCMSなど全ユーザー対象(10号)およびスクランブルなど特定以外のユーザー対象(11号))を回避する専用装置やプログラム等を譲渡する行為に対する差止めと損害賠償請求(「製造」と刑事罰はない)。
著作権法はまだしも著作権侵害防止のため必要というコンストレイントを持っていますが、不正競争防止法は著作権侵害に関係のない−−たとえば「本を読む、音楽を聴く」という行為まで抑圧する可能性を秘めています。
DRMは、デジタル形式のあらゆる情報に適用され、(1)
著作物ではない事実情報や
(2) 著作権の保護期間が満了した作品などパブリック・ドメインに属する情報までコンテンツ・プロバイダーが囲いこめるばかりでなく、(3)
著作権法30条以下に規定する家庭内使用や教育用使用などまで技術的に制限できる可能性をも開きました。
日本のDRM保護法は、いずれも、いまのところ、私人による回避行為そのものや、パソコンのような汎用機を違法化しているわけではありませんが、まだ出現していない技術を抑圧するためどうしても包括的な文言になるので、濫用された場合、情報技術の進歩に対する弊害ははかり知れません。
また、DRMは本質的には性能抑圧システムなので、全メーカーが採用しない限り実現・維持は不可能です。そのためには法律(たとえばSCMSなら米国家庭内録音法[16])による強制−−de
jure standard−−が必要ですが、これを業界内や業界間の合意で、またはマイクロソフトのような独占的供給者の市場力[17]を利用して−−de
facto standardで−−強行するケースがみられます。
いま話題になっている次世代DVDの標準にしても、無理に統一しなくても、両規格ともスタートして、競争すればいいじゃないか――それによって発生するデメリットは、競争による価格や性能のメリットで相殺されておつりがくる――私のような競争原理主義者はこんなふうに考えます[18]。これも報告書には書いてありませんが・・。
独占禁止法3条については「排除・支配」や「相互拘束」が立証できれば立件できますが、「公共の利益」では正当化できないというのが公正取引委員会の立場です(公共の利益=競争維持)。本稿の主題からははずれますが、憲法21条「表現の自由」にも接触するでしょう。
ミスユース(日本では民法1条3項の「権利の濫用」)について考えてみましょう。いわゆるシカゴ学派は、ミスユースは反トラスト法と重複するから廃止すべきだ――と主張しているのですが、そのシカゴ学派の長老リチャード・ポズナー第7巡回裁判事が言っています[19]。ちょっと長いのですが読んでみましょう。ここでいうフェアユースとは、著作権法30条以下にある「著作権の制限」ですが、限定列挙の日本とは違って、米国のは一般規定です。
「フェアユースについては非常に懸念される問題がある。それは、法思想家たちによって以前から指摘されている「書かれている法」と「行われている法」の乖離に関するものだ。両者が乖離していることはよくあることだが、フェアユースがその一例だ。私が以前このブログで言ったように、フェアユースは著作権者に損害よりもむしろ利益をもたらすことが多い。といっても、いつもそうとは限らないし、その上、著作権者が、ある程度の無許可複製から販売上の損害を受けないどころか利益を受ける場合でも、彼がライセンス料を引き出せそうだと判断した場合は、その利用をフェアユースではないと主張するだろう。フェアユースの原則があいまいなため、著作権者は、フェアユースがなしくずしに拡大するのを防ぐため、それを非常に狭く解釈する傾向がある。
「その結果は著作権のシステマティックな過大請求で、著作権の範囲についての誤解のもとになっている。ほとんどあらゆる本の著作権ページや、DVDやVHSの始めにある著作権告知を見るがいい。告知は、ほぼ常に、いかなる部分といえども出版社(または映画スタジオ)の許可なしに複製することはできないと言っている。これはフェアユースの完全な否定だ。告知を無視した読者や視聴者は、権利者から脅しの手紙を送られるリスクを冒すことになる。訴えられるのかどうか、また、訴えられたとして、フェアユース法理のあいまいさのため結果がどうなるのか、不確定な状況におかれる。
「作家や映画監督は[他人の著作物についての]フェアユースの利用候補者だが、彼らは自分の出版社やスタジオが厳しい著作権警察だと知ることになろう。つまり、出版社は、自分の作家が他の出版社の作品を利用することにより、自分の出版物についてのフェアユースが拡大することを恐れる。その結果、私たちは、たとえば出版社が発明した「1編の詩から2行以上引用するには使用許諾が必要だ」といった馬鹿げたルールを含む「行われている法」の全体系に縛られることになる。
「著作権の過大請求の馬鹿げた例がある。『下町の学校についてのドキュメンタリー用に生徒のインタビューを撮影していた映画作家は、たまたま背景にあったテレビの映像を捉えてしまった。それは「The Little Rascals」の3秒ほどのシーンだった。この3秒間のTV番組の著作権者から使用許可をもらわなければ、彼の映画にこのインタビューは使えないと信じ込んだ映画作家は、ハル・ローチ・スタジオとの十数回にわたる電話の後、スタジオの弁護士につながれ、その映像を非営利のドキュメンタリー映画に使ってもいい、ただし使用料25,000ドルを払えば・・と言われた。映画作家は払うことができず、シーン全体をカットすることになった』(Jeffrey Rosen, "Mouce Trap: Disney's Copyright Conquest," New Republic, Oct. 28, 2002)。3秒間の「一瞬ちらり映像」の複製は明らかにフェアユースだが、映画作家がこのシーンをカットしなかったらスタジオがどう反応したか誰に分かろう。
「こうした著作権の濫用にはどう対処すべきだろうか。わたしがWIREdata判決(pp. 11-12)で仮説的に提案したひとつの可能性は、著作権の過大請求を著作権の濫用(ミスユース)の一形態とみなし、権利の没収をおこなうことだ」。
WIREdata判決のサマリーを注に書いておきました[20]。この判決について、例のラリー・レッシグがこう評しています。「これは偉大な控訴審判決だ。ポズナー判事は、全員一致の判事たちを代表して、「著作権者によって創作されても所有されてもいないデータに対する、著作権者による、著作権法を利用したアクセス制限の試み」を棄却すると書いている。著作権の限界を示す偉大な判例群のなかでも、これは上位に(最高裁のFeist
v. Rural判決(Feist Publications, Inc. v. Rural Telephone Service Co., Inc, 499 U.S. 340 (1991)――データを集めるのに金がかかったのだから、それを回収するため著作権保護を与えるべきだといういわゆる「額に汗sweat
of the brow」論を否定した)よりもはるかに上位に)置かれるべきものだ」。
この事件はデータベースの事件でしたが、「フェアユースの制限がミスユースに当たる(語呂合わせみたいで申し訳ないのですが)」という点がコンテンツにも応用可能です。
ごく最近、経済産業省の研究会が、知的財産権の濫用に対して民法1条3項の権利濫用禁止を適用しようという発想で、準則の策定に乗り出しました[21]。
研究会の中間論点整理はこう言っています。「当面の法的対応:パテント・ミスユース法理と同様の効果が得られる法理を導入。具体的には、民法第1条第3項に規定されている『権利の濫用』の法解釈を行い、上記行為が権利濫用に該当しうる旨を『市場における経済取引に係る準則』として整備する」。
たぶん、次のステップは、不正競争防止法による法制化だと思います。日本でも、遅まきながら、著作権法のどうしようもない硬直性を、ミスユース法理でファイン・チューニングできる可能性が出てきたことにわずかながら勇気づけられます。
おわりに:
今まで話してきたこと要約します。いま映像コンテンツ産業がおおきく飛躍するためには、
(1) コンテンツの制作、(2)
コンテンツのネットワーク流通、(3)
権利の集中処理、(4)
DRM――それぞれにおける自由競争の貫徹が必要です。
報告書の謙抑的な書き方を私なりにラジカルに表現すれば、(1)
については優越的地位の濫用、
(2) については垂直的拘束、(3)
については私的独占と価格カルテル、
(4) については技術標準カルテルと権利濫用という、いずれも反競争的慣行が存在する可能性があります。
これらが「競争の実質的制限」や「公正競争阻害」に当たる場合は、独占禁止法違反事件として立件されますが、それに至らない場合でも映像コンテンツ産業そのものの成長を阻害していることは疑いありません。
新旧メディア間の闘争は、映画からテレビへの移行のときにも起こりました。米国では、この闘争の中からコンテンツ制作産業(スタジオ)が独立し、最後の勝利者になりました。いま、送信可能化権で旧メディアのコンテンツから断絶された日本のインターネットは、自前のコンテンツを作り始めています。
これをみた旧メディアは、あわててインターネットに降りてこようとしていますが、旧態依然たる高コスト経営のままでは、うまくいくかどうか疑問です。万一、時間稼ぎや退職金稼ぎのために、インターネットに対する参入妨害をするようなことがあれば、独占禁止法が相手になるでしょう。
映像コンテンツの真のクリエーターたちを、旧メディアの拘束から解放し、インターネットというあたらしい翼にに乗せて、一気に世界に飛躍させるためには、独占禁止法だけではなくて、いまはDRMなどで著作権法のお先棒担ぎになってしまった経産省の不正競争防止法も、映像コンテンツ・ビジネスにおける自由な競争の貫徹という政策目標を自覚しなければならないと思います。ご静聴ありがとうございました。
1.歴史:
1947年独占禁止法制定。1949/1953年改正→1950年代「冬の時代」。1960年代寡占化進行(他方1962年景品表示法)。1977年改正強化。1990年代規制緩和が進行。2005年課徴金引き上げとリーニエンシー。
2.目的:
1条:
(1) 公正かつ自由な競争を促進することによって、(2)
事業活動を盛んにし、(3)
もって消費者利益を確保する。
3.規制:
独占禁止法の実体規定は行為規制と構造規制に大別される。行為規制の概要(抜粋または要約)を下に示す(本稿では構造規制は省略)。
3条 事業者は、私的独占[前段]または不当な取引制限[後段]をしてはならない。
2条5項 この法律において私的独占とは、事業者が、単独に、又は他の事業者と結合し、若しくは通謀し、その他いかなる方法を以ってするかを問わず、他の事業者の事業活動を排除し、又は支配することにより、公共の利益に反して、一定の取引分野における競争を実質的に制限することをいう。
2条6項 この法律において不当な取引制限とは、事業者が、契約、協定その他何らの名義を以ってするかを問わず、他の事業者と共同して対価を決定し、維持し、若しくは引き上げ、又は数量、技術、製品、設備若しくは取引の相手方を制限する等相互にその事業活動を拘束し、又は遂行することにより、公共の利益に反して、一定の取引分野における競争を実質的に制限することをいう。
19条 事業者は、不公正な取引方法を用いてはならない。
2条9項 この法律において不公正な取引方法とは、・・・公正な競争を阻害するおそれがある[行為]のうち、公正取引委員会が指定するものをいう。
不公正な取引方法(昭和57年公取委告示15号)[要約−−いずれも「不当に」、「正当な理由がないのに」(*−−立証責任が転換されている)が条件]
*1 共同の取引拒絶とその強制。
2 単独の取引拒絶とその強制。
3 差別対価。
4 取引条件の差別。
5 事業者団体における差別。
*6 不当廉売。
7 不当高価購入。
8 欺瞞的顧客勧誘。
9 不当な利益による顧客勧誘。
10
抱き合わせ販売。
11
排他条件付取引。
*12 再販価格拘束[相手方およびその取引先]。
13
拘束条件付取引[前2項以外]。
14
優越的地位の濫用。
15
競争者に対する取引妨害。
16
競争者に対する内部干渉。
21条 この法律の規定は、著作権法、特許法、実用新案法、意匠法又は商標法による権利の行使と認められる行為にはこれを適用しない。
4.重要概念:
「一定の取引分野[=市場]における競争を実質的に制限」(法3条、2条5/6項):
「公共の利益に反して」(法3条、2条5/6項):
「公正な競争を阻害するおそれ」(法19条/2条9項):
5.適用除外:
1991年の42法律68制度→1997年の20法律35制度。
知的財産権適用除外:21条「知的財産権の行使」。23条4項「著作物再販」。商業用レコード2次使用料/貸与権報酬に関する権利者団体の協議など。
図1において、価格差別がない場合、自由競争によって形成される価格Pe/数量Qeの交点E(均衡点)で、消費者余剰と供給者余剰が最大になり、資源の最適配分と供給量の最大化が実現する。この価格では、これ以上の価格でも買える顧客は望外の得をしたことになる。これが消費者余剰である(PeE、D、p軸で囲まれた図形)。これ以下の限界費用で供給できる供給者も望外の得をしたことになる。これが供給者余剰である(PeE、MC、p軸で囲まれた図形)。余剰は投資され、経済を拡大する。余剰が生じるのは、差別がないという前提のため、商品価格が1市場のなかで一義的にきまるからである(1物1価)。モノポリストは、社会的な均衡点ではなく、限界費用曲線と限界収入曲線の交点N(利潤最大化点)に対応する価格Pm/数量Qmを選択する。その場合、社会は、図形MNEで表される死重損失(deadweight
loss)を受ける。
[2]
全国131、都道府県あたり1-5。
[3]
THE ECONOMIST, June 30, 2001.
[4]
1千万超3億円以下の会社は、相手次第で親事業者になったり下請事業者になったりする。
[5]
Financing-Syndication Rule.
[6]
Prime Time Access Rule.
[7]
送信可能化権は、1996年に条約ができる10年も前から(ということはインターネットの影も形もなかったころから)日本がWIPOで提案していたものらしい(加戸守行『著作権法逐条講義四訂新版』187ページ)。そのころは有線カラオケからテラ銭をとるための有線送信権というささやかな権利だったものが、旧メディアの利権と結びついて、いまや情報革命を絞め殺そうとする大蛇にまで成長してきた。WIPOではみんなほめてくれたらしい(前掲)が、TRIPSとちがって通商報復がないものだから、米国はじめ誰も本気で実施しない。どうぞお先にというわけで、日本だけがいい子ちゃんぶって2階に上げられて梯子をはずされ、世界の情報革命から取り残されている。おっちょこちょいと叱られる機先を制するため、世界で最も進歩的な著作権法だなどと強弁している。
[8] 著作者と実演家はともかく、レコード製作者と放送(有線放送)事業者には送信可能化権を与えるべきではなかった。事業者なら、公衆送信されてしまってからでも、十分損害賠償請求できるはずだ(米国では現にRIAAが何千人ものp2pユーザーを訴えている)。しかしいまさら変えられないのなら、せめてネット・ユーザーに広範な権利制限(公正利用権)をあたえるべきだ。といっても、ユーザーには業界団体がついていないから、誰が代弁してくれるかわからない。1996年のWIPO会議で見たように、メーカーやプロバイダーは近視眼的な自己保身しか考えていない。もともとあやふやな寄与・代位責任を免責してもらう代償として送信可能化権に賛成し、自分の顧客を旧メディアに売り渡した。この会議では、ほかに、著作物の輸入権とか、コンピューター内部での信号の一時的蓄積を複製とみなすなど、著作権世界の中だけでしか通用しないふしぎな提案が次々と出され、きわどく流れている。
[9]
たとえば放送収入の何%という契約で、同一の作曲家が複数の権利管理事業者と契約している場合、放送した曲名を個別把握できないなどの事情。
[10]
ライセンス取引きとはオークションに他ならないので、一方に大勢の権利者、他方に大勢の利用者がいて、その間に大規模なオークション・システムを置いてコンテンツ取引所(Clearing
House)の仕事をさせるという構想は、いまでも実現可能であろう。
[11]
著作権法95条13項/97条/97条の3第5項。
[12]
それぞれ2.8%、1.35%、1.8%、3.0%。私の個人的な感覚だが、ストリーミングで約9%というのはあまりに高い感じである。音楽ならダウンロードで7.7%なのだから・・。著作権は独占権だからいくらでも高い値段をつけられるのだが、ほかのエンターテインメントとの競争に負けるという発想−−競争感覚−−がないのだ。私はいま小遣いを3,000円持っているが、これでステーキを食べようかCDを買おうか迷っている。CDは米国でなら3枚買えるのだが、日本では1枚しか買えない。CDの満足度が3分の1しかないので、私はステーキに決める。CDが売れないわけだ。
[13]
Broadcast Music Inc. (“BMI”) and American Society of Composers, Authors
and Publishers (“ASCAP”) v. Columbia Broadcasting System Inc., 441 U.S.
1 (1979).
[14]
DRMは、回避技術を追い越すため、どんどん重くなっている。回避技術とDRMの戦いは、矛と盾の関係である。いまのDRMは多分に業界団体が演出する集団ヒステリーの産物である。「技術の発達によってコンテンツが大量にコピーされ、その結果文化や芸術が滅びる」という誇張された悲鳴は、音楽で言えばLPレコードからCDへ、映像で言えば劇場映画からVTRへの移行期に、それぞれの業界団体からまず発せられ、業界全体がパニックに陥った。業界団体はみずからの存在理由を確保するために、doomsday
sayerを演じる宿命にある(私的録音録画補償金の20%など予算はたっぷりある)。彼らの破滅予言はまったく当たらなかったのだが、あとになってそれを責める人はいない。こういうと、彼らは、「ではお前はコンテンツ泥棒の味方なのか」と開き直る。いつも誇張なのである。私は違法コピーを弁護する気はないし、DRMもある程度までは必要悪だと思っている。だが、「ある程度」まででいい。また複数のDRMを競争させる環境が前提だ。アップルのi-Pod/i-Tunesの成功を見ても分かるとおり、大多数の人はコンテンツに金を払うつもりがある。DRMは、少数の無法者を抑止するため、大多数のまともな市民に負担をかけているのだ(SCMSやActivationがいい例)。ある程度の違法コピーは、情報産業の「計算されたリスク」としてコスト化できるはずだ(現に中国で何百万の違法コピーが出ているマイクロソフトが、毎年好業績をあげているではないか)。ひとつの違法コピーも許さないDRMは、ヒステリーの産物にほかならない。
[15]
DRM破りを違法化する政府の行動もヒステリー気味である。もっとも、文化の多様性を誇る米国では、業界やそれを受けた行政府のオーバーなシュプレッヒ・コールに食傷気味な議会は、行動がきわめて緩慢で、条約義務の送信可能化権すらまだ実現していない(だから通商報復のあるWTOではなく、強制力のないWIPOを選んだのだろう)。その間にネット産業が力をつけ、旧メディアと対等で交渉できるまでに成長した。それにひきかえ、官僚の業績が在任中の立法数で評価される官僚国家日本では、著作権法改正のような国家百年の計が、1年か2年で、国民が気づかないうちに成立し(マスコミは自分のことなのでちゃんと報道しないし、したがって国会も無知・無関心で、しゃんしゃん通してしまう――1997年の送信可能化権などはWIPO条約調印半年後、発効5年前という信じられない速さだった)、ネット文化の芽をひとつひとつ摘んでいく。
[16]
Audio Home Recording Act, 17 U.S.C.S.§1001.
[17]
マイクロソフトの次世代OSロングホーンは究極のDRMだと噂されていいる。
[18]
東芝・NECグループのHD-DVDとソニー・松下グループのブルー・レイがコンテンツ・プロバイダー(ハリウッド)の取り込み競争を繰り広げているが、売り込みポイントのひとつがDRMである。彼らの目はコンテンツのほうしか見ていない。ユーザーの選択権を確保するためにも、複数のDRMを競争させることが望ましい。コンテンツの供給者は重いDRMを望むが、消費者は軽いDRMを好む。両者間の均衡点が最適の
[19]
2004年08月29日http://lessig.org/blog/archives/002119.shtml
[20]
Assessment Technologies v. WIREdata, 350 F.3d 640 (7th Cir. 2003):ウィスコンシン州のいくつかの市町村は、財産税評価目的で住民の家屋を全数調査し、AT作成のデータベース・プログラム「マーケット・ドライブ」(Microsoft
Accessベース)に入力していた。WIREは、情報公開条例に基づいて、これの原データを請求(不動産販売目的)。市町村はATとのライセンス契約で原データの公開も禁じられているとして拒否。ATがWIREに対して著作権侵害予防の差止請求。巡回裁(Posner判事)は、「著作物でない原データの開示を、著作権ライセンス契約で制限することは著作権のミスユースである(WIREが取引制限を立証したら、反トラスト法違反も成立する可能性があった)。開示のために必要なプログラムの使用はフェアユースとして許される」などとしてWIREを勝たせた。